人々の潮流 in駅

朝、電車から降りて階段を探すと、滝のように溢れ降りてきた人々が同じように階段めがけて歩く、走る。そこへその列車に乗りたい人がまたまた滝のように階段を駆け下りる、走る。この状態はまさにカオスだ。発車時刻まで継続し、酷くなる。一方通行を示す矢印など飾りに過ぎない。皆一心不乱に時間という制約のもと、行動している。他者を気にする余裕はない。
だが、こんな状態だからこそ、圧を感じる。皆と足を揃えよという圧力だ。この時ばかりは、進行方向を示す記号が無視され、代わりに、空気を読んで行動せねばならない。自分の進みたい方向に進むには、流れを発見せねばならない。もし、進みたい方向と逆方向の流れに身を置けば、ぶつかられる、睨みつけられるといった非難を浴びることになるだろう。だが、進行方向と同じ流れにいても油断はできない。方向の他に速度も読み、合わせる必要がある。なぜならば、朝には人それぞれ時間の制約のもと行動していることが多いからだ。もしゆっくり歩いたり、突然止まったりすれば、先程述べた非難を浴びることになるだろう。
私としての考えはこのようなことははっきり言ってごめんだ。ものすごく面倒臭い。だが、このような同調圧力のお陰で、私たちは、さらに面倒なトラブルに巻き込まれる必要がなくなっている。圧力に従うことで、非難といったストレスを感じずに済み、それがきっかけで起こりうるトラブルにも巻き込まれないだろう。圧力に従った方がマシでいられるから現在の状態が維持されているのだろう。
だが、私は、圧力のお陰〜などと述べたが、同調圧力を肯定したいわけではない。主観的に面倒臭いという理由は先程述べたが、それ以上に弱者を見過ごしている可能性がある。例えば、目の見えない方は、どうやって流れを読むべきだろうか。 ご老人や始めて日本を訪れた人はあまりのスピードについていけないであろう。 とはいえ、既存のものにそのような方向けの通路を作るのは難しいかもしれない。したがって、周りを観察し、弱者を発見したら自分たちの勝手なルールを押し付けることはしないようにする。少なくともまずは自分がそれをする必要がある。